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『累』大人買いした

漫画

 昔から、変身というものに、心動かされてきた。

  僕の最も古い記憶は、実家の居間でウルトラマンタロウのビデオを見ていたときのものである。多分、四歳か五歳だったと思う。

  兄と一緒にこたつに脚を突っ込んでみていたそれは、第31話「あぶない!嘘つき毒きのこ」という話で、謎の毒キノコを食べた人間や、キノコ型怪獣マシュラの放出した毒液を浴びた人間が、次々とキノコ人間になってしまうという話であった。多分元ネタはマタンゴ

 

 大人になった今、改めて見返してみると、全然怖くもなんともない――むしろ突っ込みどころ満載で、コント・コメディっぽい雰囲気さえある――話なのだが、幼い僕にとっては、人間がきのこ人間になるという描写が、恐ろしくてたまらなかった。自分もきのこ人間になってしまうのではないかという恐怖から、中学に入学するくらいまで、まともにキノコを食べることができなかったくらいだ。

 同じくウルトラシリーズで、ウルトラセブン第2話『緑の恐怖』という話も印象に残っている。これに登場する植物型宇宙人ワイアール星人は、人間を自分たち同じワイアール星人に変えてしまうという能力の持ち主であった。『緑の恐怖』を見た幼い僕は、マシュラの時同様、自分もワイアール星人に変身してしまうのではないかと恐怖に打ち震えたものだ。

 

 しかし、変身は僕にとって恐怖の対象であると同時に、ひどく魅力的で蠱惑的なものでもあった。

 子供のころは、ウルトラマン仮面ライダーといった変身ヒーローに人並み以上に憧れを抱いていたし、手塚治虫の『ふしぎなメルモ』の、子供から大人に変身するシーンに対し、異常なまでにエロチックなものを感じ取ったこともよく覚えている。

 中高生のころに読んだ小説は、中島敦の『山月記』や芥川龍之介の『白』*1といった変身を題材とした物語ばかり記憶に残っているし、大学の卒業論文で扱ったのはカフカの『変身』だった。

 なによりTSF。僕がTSF(性転換を題材としたフィクション作品)を偏愛していることは機会があるたびに触れていることではあるが、TSFというのは言うまでもなく、変身を主体としたジャンルである。

 

 さて、自分語りはこれくらいにしておいて、本題に入ろう。

 先日、『累』(松浦だるま講談社)を一気読みした。これもまた変身というものを題材とした作品である。

 

累(1) (イブニングコミックス)

累(1) (イブニングコミックス)

 

 

 『累』は様々な場所で絶賛されているのを見て、長い間読みたいなあ、読まないといけないなあと思いながら、なかなか手を付けられずにいた漫画であった。

 

 しかし、最近読んだ料理マンガ『めしにしましょう』(小林銅蟲講談社)

  が滅茶苦茶面白くて、この漫画が『累』の制作現場を(ある程度)モデルにしていると聞き、ついに『累』1~10巻のkindle版をまとめて購入することにしたわけである。

 

 

 そんでもって『累』の感想。ネタバレは極力なしの方向で。

 

 いやあ、今まで手を付けていなかった自分をぶん殴ってやりたくなりましたね。それくらい面白い作品だった。

 知らない人のために『累』の概略を簡単に記しておくと、世にも醜い外貌を持って生まれた女性・累(かさね)が、母親の形見である口紅の奇妙な力を用い、美女たちから顔を奪い取り、演劇界でのし上がっていくという話だ。

 顔を奪い取るというのは文字通りの意味で、口紅を塗った状態の累が美女とキスをすると、累の顔は美女のものとなり、逆に美女の顔は累の醜い顔となってしまうのである。

 

 美人と不美人の顔だけが入れ替わるという、変身に関する設定がとにかく秀逸。

 僕は他人の容貌について、できる限り悪く言わないようにしているし、容姿で差別するような人間は最低だと考えている(自分の容姿が褒められたものでもないし)。

 しかし、冒頭に書いたように、僕はウルトラマンにはなりたくて、ワイアール星人やきのこ人間にはなりたくないと考えてきた。同じように美人にはなりたいけど不美人にはなりたくないという感情を持っていることも否定できない。

 『累』を読んでいると、そういう自分の中にある(身も蓋もない言い方をしてしまえば)エゴイスティックで差別的な感情が刺激されてしまって、なんだか非常に居心地の悪い気分になる。だけど、それがいい。自分の中にある厭な感情と強制的に対峙させられる、というのは、フィクション作品の醍醐味の一つだから。

 

 ……と、こういうことを書くと、『累』はなんだかドロドロした、暗くてへヴィな話だと想像する人もいるかもしれない。僕も読む前までは、設定とあらすじだけを見てそういう話だと勝手に思っていた。

 だが実際に読んでみると、必ずしもそういう話ではなかった。確かにヘヴィな要素は多いし、決して明るい話でもないのだが、本質的な部分では熱血的というか、非常に熱い物語であると感じた。

 僕は週刊少年ジャンプに育てられた人間なので、努力・友情・勝利――いわゆるジャンプ三本柱――を漫画の中に見出すと、非常に「熱い!」と思ってしまうわけである。そして、『累』には努力も友情も勝利もすべてが含まれている。

 主人公のかさねさんは、とにかくひたすら努力している。それは自分の容姿を磨くことだったり、演劇の世界にのめりこんでいくことだったり、美人を罠にかけて陥れることだったりするわけだけど、やっぱり努力をしている人間を見ると、それがどんな方向性であれ自動的に応援したくなっちゃう。

 勝利というのはわかりやすい。醜い容貌のせいで蔑まれてきたかさねさんが女優として成功してちやほやされたり、美人に仕掛けた罠が成功したり、そういうの見るだけでカタルシスといいますか、爽快感みたいなものがある。

 それから友情。かさねとニナ、かさねと野菊、かさねと羽生田、野菊と天ヶ崎、といった具合に、本作では幾人もの登場人物同士の関係性が描かれているわけだけれど、そのどれもが歪んでいる。

 これらの関係性はすべてまったく歪んでいるのだけれど、ぎりぎりで友情に見えなくもないような形をかろうじて保っていて、そのぎりぎりさ具合が非常に美しい。

 特にニナをめぐるかさねや野菊の態度はじつにいい。詳しく書くとネタバレになっちゃうので書かないけれど、相手が反応できないことをいいことに、一方的に利用しつつ友情を押し付ける感じ、あの「いい話っぽくしようとしてるけど、酷いことしてるからね⁉」という感じは、思わず乾いた笑いが漏れるというか、とにかく最高ですねえ。

 友情って、必ずしもキラキラした善きものであるとは限らない。一方的で、独善的で、残酷であることさえある。でもそういうのも含めて友情だとし、キラキラした無私の友情よりも独善的な友情のほうが、むしろ見ていて燃えることもある。

 なんというか、『累』で描かれるような、相手を利用しつくし、食ってしまおうとするようななりふり構わない「友情」のほうが、仲間と手と手を取り合って高みを目指すような友情よりも、泥臭いというか、努力との相性が良くて、そういう部分が燃えるのかな、という気がする。

 

 そして、努力・友情・勝利的な要素を別にしても、『累』は熱い、というかカッコいい。

 主人公のかさねさんに限らず、『累』に登場する女性は、基本的に何かしらを恨んでいる。それは世界そのものだったり、自分を取り巻く運命だったり、ある特定の人物であったり様々なのだけれど、彼女たちは腹の中に怨恨を抱えている人物だから、よく何かを睨みつけるような顔をするんですね。

 この恨みのこもった表情が非常にワイルドでかっこいい。

 なにかを恨む、というマイナスの感情が持っている静かで純粋なカッコよさといいますか、ノワール映画的なカッコよさといいますか、そういうものを存分に堪能させてくれる。

 孤独で虐げられてきた者が反逆するという物語的類型が好き、みたいな話は前にも書いたけれど、『累』の根本にもそういう要素が確実にあって、女性たちが「恨みはらさでおくべきか」的な表情で、なにかをキッと睨むたびに、僕なぞはカッコよさのあまり痺れてしまうのである。

 

 なにはともあれ、非常に面白いマンガで、10巻をほとんど休まずに一気読みしてしまった。まだ未見の方はぜひ。超おすすめ。

 

 最後に、個人的に一番好きなキャラクターを挙げさせてもらうと、天ヶ崎さんが好き。

 やってることはどう考えてもクズそのものなんだけど、妙に愛嬌があるというかなんというか。自身も確実に歪みまくっているのに、ほかの登場人物がさらに歪んでいるせいで、相対的に常識人の苦労人に見えて、そういうところが非常にかわいらしい。大好きです。 

 

 

*1:白犬が黒犬に変身してひどい目にあったりする話