NOPE/ノープを見た(若干ネタバレあり)

 『NOPE/ノープ』を見た。

 


 あらすじを簡単に説明すると、

黒人の兄妹、OJとエメラルドが経営する牧場の周辺で、停電が起こったり、奇妙な音が聞こえたり、馬が怯えたりといった怪奇現象が次々と起こっていく。兄妹の父も、空から突然降ってきたコインによって命を奪われた。その異常な現象は牧場の上空に存在する未確認飛行物体によって引き起こされているらしい。兄妹は上空に潜む何かを撮影して一儲けすることを思いつくが……

 というような話である。

 

 非常に印象に残るシーンが多い映画だったな、というのが最初の感想。
 暴走するチンパンジーの横に垂直に立つ靴や、大量の血液が雨となって降り注ぐ家、それから広大な荒野を力強く駆ける馬などなど。
 それぞれ意味深だったり、即物的で俗悪だったり、あるいは問答無用で心躍ってしまうような、まったく異なる方向に強烈な印象を残すシーンなのだが、それらが喧嘩することなく調和しているのが興味深かった。
 
 ジョーダン・ピール監督作品らしく、映画(というかショービジネスや社会全般)が根本的な部分で持っている搾取構造や、マイノリティを軽視する姿勢、あるいは搾取があることがわかっていながらそれを「見ないふり」してやり過ごすことなどに対して、鋭い批評も向けられている。
 アジア系の元子役俳優・ジュープのエピソードの意味や本筋との関係など、考察しがいのある要素に事欠かない。だから、ただインパクトのある映像に圧倒されるばかりではなく、見ている最中に様々な思考を巡らせることになる、そんな映画だった。

 

 社会に対する批評的要素や、観客に思考を促す要素がそこかしこにちりばめられているのと同時に、力強くパワフル、豪快で景気のいい要素が多数存在するのも、『NOPE/ノープ』の魅力であった。
 特に終盤、空を飛ぶ謎の存在の習性をある程度理解した主人公たちが、恐れおののきながらも、知恵と勇気で食らいついていく展開にはテンションが上がった。下を向いて小さな声で「見てはいけない」と言っていたエメラルドが、天を仰ぎ、大声で叫ぶ様子など最高だった。

 

 全体の感想としては、非常に面白い映画体験でした。
 心残りがあるとすれば、IMAXで見たほうがいい映画という評判を聞いていたので、本当はIMAXで見たかったけど、田舎民なので小さめのスクリーンで見ちゃったという点。まあこればかりはしょうがないかな。

『老人と海』を読んだ

 

 



 ヘミングウェイの『老人と海』を再読した。

 再読と言っても、前に読んだのはおそらく10年ほど前で、大まかなあらすじ以外はほとんど覚えていないような状態であった。

 なぜかサンチアゴ(サンチャゴ)という名前を、主人公である老人ではなく、老人に懐いている少年の名前と勘違いして記憶していたくらいである。

 今回読んだのは2020年に新潮社から出版された高見浩訳のものである。昔読んだのも確か新潮文庫で、福田恆存訳のものだったのではないかと思う。

 

 有名すぎる作品だが、一応簡単に説明しておくと、八十四日もの不漁に見舞われた老いた漁師が、一人で海に乗り出し、巨大なカジキマグロと遭遇し、死闘の末についに仕留めるが、しかし、港に帰る途中で老人はサメの襲撃に遭う、というような話である。


 さて、それで再読してみての感想なのだが、ぼんやりと私の脳にあった記憶、あるいはイメージとは結構異なる話であった。

 特に気になったのが、主人公である老人と少年の関係性である。

 大自然と戦う気高い孤高のヒーローというイメージのあった老人サンチアゴだが、実際にはピンチがあるごとに、自分を慕ってくれる少年マノーリンのことを思い浮かべて、彼がいてくれたら、というようなことを考えるような人物である。

 正直、再読するまで、老人は「頼れるのは自分の腕のみ」みたいなノリの人物だと勘違いしていたが、実際にはもうちょっと等身大の人間というか、現在は一人でいるので一人でやってるが、それはそれとして普通に寂しさは感じるという感じの人物だったので、ちょっと驚きさえした。

 また、少年の方も、滅茶苦茶良い子で、かなり老人を慕っている。これだけ懐いてくれるんなら、そりゃあ老人も少年のことを想っちゃうよね、というくらい懐いている。ラスト近辺の老人に対する少年の振る舞いとか、滅茶苦茶可愛いなあと思う。

 そういうわけで、私はこの『老人と海』に対して、慕ってくれる少年が側にいない状態で頑張る老人と、その老人のことを想いながらも、離れた場所で待つしかない少年の友情を描いた物語というような印象さえ受けた。


 昔読んだ時は、正直そんなに面白いと思わなかったような気がするのだが、今回はかなり楽しめたように思う。

法月綸太郎「切り裂き魔」について/創作物への批判とその対応について

 ミステリ作家法月綸太郎が書いた「切り裂き魔」という短編がある。(『法月綸太郎の冒険』収録)

 

  作者と同名の名探偵・法月綸太郎を主人公とした一編で、図書館の推理小説の最初のページばかりが破かれるという奇妙な事件をめぐる作品である。事件を解決するため、名探偵・法月綸太郎は図書館長の立会いのもと、被害にあった図書を誰が借りたのか、その貸出履歴を調査している。

 この短編を発表した後、作者の法月綸太郎は、大学の司書課程を受講しているという女性読者から、以下のような指摘の手紙を受け取ったらしい。

図書館はプライバシーの保護には、万全の注意を払っております。磁気コードの貸し出し業務については、本が返却された時点で、速やかに抹消いたします。1ヵ月、2ヵ月も記録が残っていることなどありえません。また、仮にそういう図書館があったといたしましても、蔵書のページが切り裂かれたぐらいのことで、部外者にその記録を見せるなど、館長立ちあいのもとでも考えられないことです。(中略)これは、一般の方には取るに足りないことでも、司書職に関わるものに取りましては、プライドに関わることなのです。理解して頂けると嬉しいです。

法月綸太郎. 法月綸太郎の冒険 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.4674-4679). Kindle 版.

  この手紙に対する法月綸太郎の応答は、『法月綸太郎の冒険』の文庫版に収録されている「文庫版追記 「図書館の自由」をめぐって」に詳しく書かれている。

 「文庫版追記 「図書館の自由」をめぐって」の前半は、雑誌『小説CLUB』(桃園書房)の1993年3月号「ハーフタイム」掲載された「図書館探偵の後日談」と題されたエッセイの再録だ。

 そこで作者・法月綸太郎は、「できあがった作品そのものをどうこうしようという気はないのだが、それと作品の外で誤りを認めるのは、全く別のことである」と書いている。

 その上で、「切り裂き魔」の描写にプライバシーの問題があるということは認識していた(だから貸出情報を探る上で館長立会いのもとという描写を挿入した)ことや、自身の母親が高校図書館の司書をしていた経験があり、その母親から特に指摘されていなかったことから問題はないのだろうと思っていたと述べつつ、作中描写が司書職のプライドに抵触する可能性があるとは思い至らなかったとして、女性の指摘に感謝し、また「同じように不快な思いをされた読者がもしあれば、この場を借りてお詫びしておきたい」という謝罪の言葉によって、短い文章を締めている。

 「文庫版追記 「図書館の自由」をめぐって」の後半部は、「図書館探偵の後日談」が書かれたさらに後、『法月綸太郎の冒険』の文庫版が発売される際に、追加して書かれたものだ。

 そこには、文庫版への収録にあたって批判のあった当該箇所を修正するべきか迷ったことの告白や(作品の根幹に関わる描写なので修正しなかった旨が説明されている)、作者が「図書館の自由」という理念について無知であったことの反省、そして「図書館の自由」をめぐる近年の動向について作者が調べたことが記されている。

 法月綸太郎の作品では、その後も図書館がしばしば登場するが、その内容は図書館員倫理や図書館の自由宣言の存在を踏まえた内容にアップデートされている。

 例えば、『法月綸太郎の新冒険』収録の「身投げ女のブルース」では、警察が国会図書館を利用していたと証言する容疑者のアリバイを確認するため、国会図書館に問い合わせするがプライバシー保護を理由に断られる描写があり、そこには地下鉄サリン事件の際に国会図書館が個人利用データを捜査当局に提供した問題など、「文庫版追記 「図書館の自由」をめぐって」で「私個人の目の届く範囲で学んだ」とされる事例が反映されている。

 また、『怪盗グリフィン対ラトウィッジ機関』では、登場人物が図書館のインターネット閲覧用端末を使用する際、その閲覧について、図書館員たちが保護してくれるので、政府による検閲を受けないと信頼している描写がある。

 私は、この図書館をめぐる法月綸太郎と読者との対話は、創作物に対する批判の受け止め方として、理想的なものだと考えている。

 批判を受けた創作物に対して、作者が本当に問題があるのかどうかを検討し、批判に正当性があると判断した場合は、自らの誤りを正直に認める。そして、該当の作品を修正する場合には、どのような意図でどの箇所を修正したのか(法月綸太郎氏の例の場合はなぜ修正しなかったのか)について読者にきちんと説明し、以降の作品ではアップデートされた認識で創作を行う。創作者として、非常に立派で誠実な態度だと思う。

 これは無論、創作者は全ての批判について対応するべきだという話ではない。批判の中には、正当なものもあれば、的外れなものもあるだろう。納得できない批判を受け入れる必要もないと思う。また、批判を受けたからといって、何が問題なのか本質を理解しないままに、一度公表した創作物を言われるがままに修正したり、引っ込めたりすることは、批判を完全に黙殺することと同じか、場合によってはそれ以上に無責任な態度だと思う。

 ただ、作者が読者と対話して、正当性があると判断したなら、その批判を受け入れることは、作者にとっても読者にとっても、そして作品にとっても幸福なことだと、私は考える。

 

 

 

 

7月21日/白人は月に立ち、オリンピックが始まった


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 アポロ11号の船長、ニール・アームストロングが月面に降り立ったのは52年前の今日、すなわち1969年7月21日だった。
 アームストロングを主人公に据えたデイミアン・チャゼル監督の映画『ファースト・マン』にはいくつか印象的なシーンが存在するが、その中の一つにミュージシャンで詩人のギル・スコット・ヘロンが「Whitey on the Moon」を歌うシーンがある。


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 黒人たちは困窮しているのに、白人たちは莫大な税金を使って月を目指す。そんな不平等に対して皮肉をぶつけた歌だ。
 国家の威信なるものをかけて、アポロ計画関係者が月に行くことに執心しているのと同じ時期に、黒人たちは貧困にあえいでいた。徴収された税金は、白人たちが乗るロケットの開発に使われても、貧困層のためにはまともに使われない。

 『ファースト・マン』という映画の中で、黒人たちがあげた怒りの声は、しかし鮮烈な印象を残した後ですぐに遠景に消えていく。ライアン・ゴズリング演じるアームストロングの月旅行を阻止することはない。『ファースト・マン』という映画に奥行きを持たせる名シーンだ。*1

 

 2021年7月21日。

 東京オリンピックの一部の競技が始まった。
 新型コロナウイルスの感染拡大が収まる気配を見せない中で開かれるこの催しについて、決して少なくない割合の世論は中止か延期を求めたが、政府や関係者たちは結局開催を決定た。 政府や関係者、選手たちの多くはオリンピック・パラリンピックによって国民に夢や感動を与えると言っている。病床が埋まり、飲食店がシャッターを下ろすのを尻目に、選手たちは競技場の中を駆け回る……。
 そこにあるはずの、決して小さくないはずの批判の声は、「偉大な計画」を前にして、あたかも些細なもののように扱われる。カメラのレンズは競技場の内側に向けられ、外に響く声は遠景として消えていく。

 しかし、その声は間違いなくそこに存在している。

 

 『ファースト・マン』を見て、アームストロングに感情移入する人の心情はわかる。アポロ計画を無邪気に持て囃す人の気持ちも理解できる。

 だが、 私はギル・スコット・ヘロンの側に立つ人間でありたい。
 少なくとも自分はアームストロングではないし、アームストロングのような立場になりたいとも思わない。

*1:なお、Whitey on the Moonのリリースは1970年であり、実際には月面着陸の少し後に発表されている。

プロレスの試合は著作権法で保護されるか? 改訂版

※この記事は2021年5月23日に公開した記事を、大幅に加筆・修正した上で、2021年7月19日に再公開したものです。

 

  • 最初に
  • 著作権法における「著作物」や「実演家」とは何か?
  • スポーツは著作物ではない
  • プロレスの試合が著作物と認められるためには創作性の是認が必要
  • プロレスの創作性を認めずに無断撮影を禁止する
  •  創作性を認めても、全ての試合が著作物になるわけではない
  • セメントマッチをどう扱うか?
  • 実演家としてのプロレスラー
  • まとめ

 

最初に

 皆さんは、プロレスを現地で鑑賞したことがあるだろうか?

 私も少し前まではチャンスがあれば、会場に足を運んで贔屓の選手を応援したものだが、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてからは、なかなかそういうわけにもいかず、生でプロレス観戦をしていない。私が住む島根県にはプロレス興業は来ていないし、都市圏に足を運ぶのは少しリスクが高い。

 ところで、大抵のプロレス団体は、試合観戦についてのルールを定めている。そのルールの中には、多くの場合、観客が写真やビデオを撮影することに関するものが含まれている。

 比較的多くの団体が採用しているルールは、「写真撮影はOKだが、映像の撮影や録音は不可」というものだ。業界最大手の新日本プロレスや、デスマッチプロレスで有名な大日本プロレスなどがこの方針をとっている。

 他方で、DDTのように条件付きで映像の録画を許可している団体も存在する。

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 この動画撮影を許可するかどうかの問題について、私には少々気になっていることがある。

 それは、動画撮影を許可していない団体の中には、動画撮影を禁ずる理由として、著作権を持ち出しているところがあるということだ。

 例えば、新日本プロレスは、観戦マナーを啓発するための動画の中で、会場内で動画撮影・録音する行為を「肖像権・著作権の侵害」であると説明し、撮影した動画をインターネット上にアップロードする行為を「著作権法違反」で「10年以下の懲役又は1,000万円以下の罰金」と明言している。

*1

 


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 2020年にDDT経営統合し、新たに発足した株式会社CyberFightのブランドとなったプロレスリング・ノアは、同年7月に発表した観戦マナー動画で、動画撮影の禁止を呼びかけているが、この動画の中では、「無断で動画を撮影し、インターネットにアップロードする行為は違法」で「肖像権・著作権の侵害となり、法律違反での罰金が生じる場合がある」と説明している。*2


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 プロレスの試合は動画撮影NG。

 その主張自体はコンテンツを守る上で必要なものだろう。新日本プロレスプロレスリング・ノアは、有料会員向けに試合映像の動画配信を行っているわけで、観客が撮影した映像が無断でネット上に配布されることを禁じたいと考えるのは当然である。

 だがそれとは別に、動画の撮影や無断アップロードは著作権の侵害になる、という説明に対しては、私は引っ掛かりを覚えるのだ。

 その引っ掛かりとは、一言で説明すれば次のようなものになる。

 プロレスの試合は果たして著作権法によって保護される対象なのか?

 というのも、後述する通り、一般的にスポーツの試合というものは著作権法によって保護されないからである。

 この記事では、プロレスと著作権の関係について、検討してみたいと思う。

 なお、あらかじめて断っておくが、この文章を書いている私は、一介のプロレスファンに過ぎず、弁護士や法学者ではない。関連文献を調査し、できる限り正確な情報を書いたつもりではあるが、もしも間違った記述などがあれば、指摘していただきたい。

 また、この記事はその性質上、プロレスのショー的な側面……要するに試合に「ストーリー」があること……を前提とした記述も多く含まれている。そのような記述はどうしても野暮になるし、人によっては不快であろう。

 その点についてご理解の上、続きを読んでいただきたい。

 

*1:新日本プロレスの場合は、「興行に係る著作権」を主張しているページも存在する。これについては試合等自体の著作権だけではなく、入場曲や煽りVTR等の著作権全般を言っていると解釈するのが妥当であろう。

参考:著作権について | 新日本プロレスリング

*2:なお、プロレスリング・ノアDDTとの合同興行であるサイバーファイトフェスティバルにおいては動画撮影を許可している。

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プロレスラーとラッパーは幽霊になるか

 幼い頃、実家の廊下で幽霊らしきものを見かけた経験がある。
 私がその時見たのは、身の丈が百センチくらいしかない小さな男の老人で、風呂場へ続く細い廊下に立って、じっと私を見つめていた。
 老人の顔に見覚えはなかった。
 老人を見た私が、どのような反応を取ったのかは、よく覚えていない。恐ろしくなって自分の部屋に引き返したような気もするし、無視して隣を通り過ぎて風呂場に行ったような気もする。確かなことは、老人の幽霊らしきものが私の眼前に現れたのは、その一回限りだということだ。
 老人の幽霊らしきものを見た後、私が何か不運に見舞われるようになったとか、別の怪奇現象に出逢うようになったということは、なかったと思う。
 幽霊らしきものを見たということは、家族に対して秘密にしていたから、お祓いとか魔除けみたいなことはしなかったはずだ。
 多分夢か幻覚かなにかなのだとは思うが、私の人生の中で幽霊(らしきもの)と直接的な接点を持ったのは、後にも先にも、その一度限りだった。金縛りにあった経験も、死んだ親戚の霊を目撃した経験も全くない。

 

 現在の私は、幽霊とか霊魂とかいったものの存在をほとんど信じていないが、かといって徹底した無神論者や唯物論者、科学万能主義者というわけでもない。
 だから、例えば暗がりを歩いているときに「幽霊が出たら怖いなあ」などと考えてしまうことは普通にあるし、長い時間苦楽を共にしたテディベアを捨てたときには、なんとなく気まずい気持ちになったものだ。ホラー映画を見れば素直に怖がるし、娯楽として怪談を楽しむことも多い。
 詳しいと自称できるほど見聞きしているわけではないが、だからといって怪談や心霊現象というものに全く無関心というわけでもない。

 

 さて、ここからが本題である。

 幽霊について、私は時々考えることがある。
 プロレスラーやラッパーの幽霊というものは存在するのか、ということである。

 果たして、プロレスラーは幽霊になるのだろうか。
 ナイフで刺し殺された力道山ブルーザー・ブロディ*1なんて、この世に未練たらたらでもおかしくない。しかし、ニューラテンクォーター*2やその跡地で力道山の幽霊を見たとか、あるいはブロディの幽霊がどこかの体育館で鎖を振り回しているのを見たとかいったような目撃談を聞いたことは、一度もない。

 プロレスラーと同じく、ラッパーが幽霊になったと言う話も耳にしたことがない。

 差別や貧困、ギャングの抗争、ドラッグカルチャーと密接な関係を持つヒップホップミュージックは、死の雰囲気を纏っていることも珍しくない。若くして死んだラッパーも少なくない。死んだラッパーは幽霊になって、自分を殺した抗争相手の枕元に立ち、ディスをしていてもおかしくないだろう。それなのに、ラッパーの幽霊が出てくる話を私は知らない。
 もしかしたら、ラップの本場であるアメリカに行けば、2PACノトーリアス・B.I.G.*3の出てくる幽霊譚を探すこともできるのかもしれないが、日本国内でそういう話を探すのは骨が折れそうだ。

 

 プロレスラーの幽霊が目撃されない理由について考えてみよう。

 私が想像するに、プロレスラーが幽霊になりにくいのは、彼らが分厚い筋肉の鎧を身にまとい、強烈な生の匂いを放っているからだ。

 かの中邑真輔*4はプロレスにしかないものとはなにかと問われ、「生身の人間が命をかけて戦っているということ」と答えたそうだ。*5

 つまり、プロレスの本質とは、生きた人間と生きた人間のぶつかりあいにあり、プロレスラーの本質とはその生命力にあるのである。
 プロレスというのは、ーー絶対にあってはならないことだがーー時として誰かが命を落とす、死に隣接したスポーツである。プロレスファンが垂直落下式の危険技に歓声を上げるのは、レスラーが死の危険と隣り合わせになっているからに他ならない。そして、プロレスが死に近いスポーツであることは、プロレスラーの生命力を否定しない。むしろその反対で、プロレスが死に近ければ近い競技であるほど、我々はリングから生還するプロレスラーたちの生命力を一層強く感じ取るのである。
 プロレスラーの本質が生命力にあるのならば、彼らが幽霊にならないのは当然である。生命力に満ちた死者というのは、存在し得ないからだ。

 

 では、ラッパーの方はどうだろうか。

 ラッパーは、プロレスラーのように生命力に満ちた存在ではない。ビーフ*6オーバードース*7の末に死んだラッパーが化けて出てもおかしくなさそうだ。

 ラッパーが幽霊にならない理由としてまず思い浮かぶのは、彼らが言語の世界に生きているということだ。マイクを握って口を動かすのがラッパーの本領であり、沈黙が美徳になることは絶対にない。
 それに対して、幽霊というのは言語を必要としない存在である。幽霊は、ただそこに存在しているだけメッセージを発することができ、おしゃべりが過ぎることは幽霊を目撃した者の想像力をかき消すことにもつながりかねない。

 もっとも、何度も電話をかけてくるメリーさんのように、ある程度以上の言語能力を持った幽霊も存在するわけで、この説はあまり説得力がない気もする。

 ラッパーの幽霊について語られないのは、語る側の技術的な問題もあるかもしれない。ラッパーの幽霊について語ろうと思えば、自ずと幽霊が口にしたラップを模写しなければならない。ライムを真似し、リズムを真似し、フロウを真似しなければならない。そんな技術がある語り部は皆無とは言わないが、決して多くはないだろう。

 

 などと思いつくままにそれらしい理屈を捏ねたが、プロレスラーやラッパーの幽霊が少ないことの理由は、絶対的な数の少なさにある、というのが本当のところかもしれない。

 学校の怪談が掃いて捨てられるほど存在し、いじめだとか受験だとかを苦にして死んだ学生の霊が大量に現れるのは、現実に学生というものが大量に存在することの反映だろう。

 文部科学省の統計によれば、2019年度の在学者数は、小学校636万人、中学校321万人、高校316万人、大学291万人である。*8

 一方、プロレスラーやラッパーの人数というのはかなり少ない。

 ベースボールマガジン社が毎年発行しているプロレスラー選手名鑑は、2019年号(2018年12月発売)から掲載人数1000人越えを売り文句にしている。

 

 

この名鑑は海外のレスラーもかなりの数を紹介しているし、地方のマイナー団体所属や学生プロレスのレスラーなど取りこぼしもあることから、レスラーの正確な数を知れるわけではない。なので、あくまで推測ではあるが、日本で活動するプロレスラーの数は1000人程度なのではないだろうか。

 

 ラッパーの数はプロレスラーの数より推測が難しい。

 ZEEBRAは『公開処刑 feat.BOY-KEN』*9の中で「星の数ほどいるワックMC」とラップしていたが、この星の数というのは間違いなく100万とかいった単位ではないだろう。

 少し古いデータになるが、「BAZOOKA!!!第11回高校生RAP選手権 in 仙台」(2017年3月開催)の予選参加者が1000人を超えていたらしい。*10

 このことから考えると、ラッパーを自称する高校生に限っても1000人程度は存在しそうである。もちろん昨今のヒップホップブームもあって高校生ラッパーは増えているだろうし、高校生RAP選手権に出場しない高校生ラッパーも多くいることは留意したい。

 一方、硬式野球部に所属する高校生の数は、2020年度は13万8千人程度である。*11硬式野球部の在籍人数は例年減少傾向にあり、2020年度は新型コロナウイルスの影響もあって特に減少の幅が大きくなっているが、それでも10万人以上の高校生が硬式野球部に所属しているのである。軟式野球部や、部活以外の同好会などを含めればさらに多い。

 以上のデータから、高校生ラッパーを1000人、高校球児を10万人と互いに少なく見積もってみよう。非常に乱暴な計算だが、高校生ラッパーと高校球児には100倍の人数差があるということになる。文部科学省の統計によれば高校の数が約5000、高校生の数が300万人強なので、高校球児はだいたい30人に1人すなわり1つのクラスに1人以上はいるが、高校生ラッパーは5つの学校に1人しかいない計算になる。このことを多く感じるか少なく感じるかは人によるだろう。

 それでは、高校生以外を含んだラッパーの総数についてであるが、それを推量する手段は、ちょっと思い浮かばない。メジャーレーベルでデビューした数とか、各種ダウンロードサイトに登録されているラッパーの数を数えていくことはできるだろうが、インディーシーンのラッパーや、高校生ラッパーを始めとするアマチュアラッパーの数を数えることはできないだろう。

 なので、全く根拠のない感覚的なもので申し訳ないが、どんなに多く見積もっても1万人は超えないように思う。せいぜいその半分か、あるいはもっと少ない可能性も十分にあるだろう。

 

 なにはともあれ、絶対的な数が少ない以上、プロレスラーやラッパーの幽霊譚がほとんど語られないのは仕方ないのかもしれない。

 現在日本で活動しているプロレスラーが1000人程度として、その数は日本の人口1億2500万人の12万分の1以下にすぎないのである。

 単純な計算をしていいのかわからないが、幽霊が12万いたとして、プロレスラーの幽霊はその中に一人しかいないわけだ。そんなレアケースは滅多に報告されないだろう。ラッパーについては、プロレスラーより数が多いかもしれないが、それでも同じようなものである。

 

 そして最後に、これは多分みなさん最初からお気づきだろうし、私もあえて書かなかったのだが、プロレスラーやラッパーの幽霊が出てきたら、ビジュアルがちょっと面白くなってしまう、という問題がある。

 ドロップキックをする幽霊や、MCバトルを仕掛けてくる幽霊を想像した時、恐怖の感情より笑いが先に来る人が多いのではないだろうか。

 多くの怪談の語り手たちは、聞き手を笑わせるより恐怖させることに主眼を置く。(笑える怪談、シュールな怪談のようなジャンルもあるし、笑い話のようで実は怪談というようなパターンもあるが)

 怪談が恐怖を煽る物語である以上、それを阻害するような要素は排除せざるをえない。ちょっと意地の悪い言い方をするなら、怪談の語り手たちは、誰を幽霊にするか選んだ上で物語を作っているはずで、プロレスラーやラッパーは選ばれにくい属性というわけだ。

 

 以上がプロレスラーやラッパーや幽霊について、私が時々考えていることです。

 もしもこれを読んでいる方の中に、プロレスラーやラッパーの幽霊が出てくる怪談を知っている方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。

 

 長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。それではまた別の機会に。

 

追記

 ちなみに、私はここで書いたようなことを考えているうちに、「ラップと怪談」という小説のようなもののアイデアを思いつきました。この小説のようなものは、文学フリマに出店した際に売っています。

*1:超獣、キング・コング・ブロディなどの異名を持つ昭和の名外国人レスラー。1988年、ブッカー兼レスラーのホセ・ゴンザレスとの口論の末に刺殺された

*2:赤坂のニュージャパンホテルの地下に存在した高級ナイトクラブ。1963年、力道山暴力団組員・村田勝志によって刺突される事件が起こった。正確には力道山はその後病院に入院し、一週間後に死亡している

*3:2PACとノトーリアスB.I.G.はともにアメリカのヒップホップMC。ヒップホップ史上最悪と言われる抗争、通称東西海岸ヒップホップ抗争の末、互いに何者かに銃殺された

*4:1980年生まれ。新日本プロレスWWE所属。棚橋弘至らとともに暗黒期の新日本プロレスを立て直し、昨今のブームの礎を作り上げたレスラーの一人。リング上での独特な動きから唯一無二の存在感を放つ

*5:「プロレスという生き方 平成のリングの主役たち」(三田佐代子著、中公新書ラクレ、2016年)

*6:ヒップホップで抗争を表すスラング

*7:薬物等を身体に害が出るほど過剰機摂取すること

*8:文部科学統計要覧(令和2年版)より。https://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/002b/1417059_00003.htm

*9:ZEEBRAが所属していたヒップホップ・グループキングギドラの楽曲。日本国内で最も有名なディスソングであり、Dragon Ash等を激しく攻撃している

*10:<BAZOOKA!!!第11回高校生RAP選手権 in 仙台>、初出場の9forが優勝 https://www.barks.jp/news/?id=1000140298

*11:日本高校野球連盟HPよりhttp://www.jhbf.or.jp/data/statistical/koushiki/2020.html

全日本プロレス松江大会の観戦に行った



唐突にブログの更新を再開します。

先日(2019年4月9日)全日本プロレスの興行が、私の住む島根県松江市で行われたので観戦してきました。

会場はくにびきメッセ。たぶん島根県では一番大きいコンベンションセンター的な施設です。だいたい新日本と全日本がそれぞれ年に一回ずつくらいの頻度でプロレス興行にやってきます。

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私がプロレスを本格的に見るようになったのはここ2年くらいのことで、全日本の興行を生で見るのは今回が3回目。(過去の2回は、くにびきメッセ1回、後楽園ホール1回)

過去見た2回の大会が非常に楽しかったので、今回もウッキウキで会場にいきました。

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応援のための服装は宮原健斗選手のTシャツをチョイス。4月だけど滅茶苦茶寒かった。


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席は特別リングサイドを購入。西側最前列の真ん中あたりでした。


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私のすぐ目の前にリングアナウンサーの席があり、ゴングやらノート(進行表かなにか?)が置いてありました。


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せっかくの最前列なのに、試合中もリングアナウンサーの頭が見えるのは、ちょっと残念だなあとかちょっと思ったりもしたのですが、普段あまり見ることができないリングアナウンサーの仕事を間近で観察できる、とポジティブに捉えることにしました。


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観察の結果、リングアナウンサーはカウント2.9の度にゴングを鳴らす木槌を振り上げるという知見を得ました。第一試合の序盤であっても、レフェリーがカウントをとりはじめたら木槌を振り上げてました。これがプロ意識!

 


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普段の私は場外乱闘運(自分の席の周りで場外乱闘行われる運勢)が全くないのですが、この日の興行では結構私の周りで場外乱闘してくれて嬉しかったです。

あと場外乱闘中の選手の近くにいると結構汗のにおいがすると気付きました。

なお、上の画像のディラン・ジェイムス選手vsギアニー・ヴァレッタ選手の試合は試合時間の半分くらい場外乱闘してた印象です。

ちなみにリングアナウンサーは場外乱闘が近づく度に、ゴングと木槌を抱えて跳ねるように逃げていました。ちょっと可愛かったです。

 

この日の興行はチャンピオンカーニバルという総当たりリーグ戦の公式戦。

全7試合中4試合がシングル戦という贅沢な興行でした。

はじめて見るレッドマン選手の肉体とイケメンっぷりに惚れ惚れしたり、
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サム・アドニス選手が野村直矢選手にかけた雪崩式バックドロップに喝采をおくったりしましたが、やはり一番印象深かったのはメインの宮原健斗選手vsゼウス選手という、超豪華な一戦。


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もうとにかくこの二人の試合はスピード感やら迫力がすごくて、近くで場外乱闘があるとお客さん全員「ひえ~」とわりと本気の悲鳴をあげていました。

試合は宮原選手の執拗な首攻めやら、和田京平レフェリーとの愉快なやり取り(「レフェリーリングアウトのカウントとって」「お前が先にリングインしろ」的なやつ)やらいろいろありましたが、最終的にはゼウス選手が勝利。

ゼウス選手の普通に善良なお兄さんみたいなマイクの後、会場全体でちょっと恥ずかしがってる感じでワッショイと叫び、大会は終了しました。

 

全体的には非常に満足度高かったです。来年もまた全日本が来るなら、絶対に見に行こうと思えるような、明るくて清清しい良い大会でした。

いやあ、楽しかったです。