幼い頃、実家の廊下で幽霊らしきものを見かけた経験がある。
私がその時見たのは、身の丈が百センチくらいしかない小さな男の老人で、風呂場へ続く細い廊下に立って、じっと私を見つめていた。
老人の顔に見覚えはなかった。
老人を見た私が、どのような反応を取ったのかは、よく覚えていない。恐ろしくなって自分の部屋に引き返したような気もするし、無視して隣を通り過ぎて風呂場に行ったような気もする。確かなことは、老人の幽霊らしきものが私の眼前に現れたのは、その一回限りだということだ。
老人の幽霊らしきものを見た後、私が何か不運に見舞われるようになったとか、別の怪奇現象に出逢うようになったということは、なかったと思う。
幽霊らしきものを見たということは、家族に対して秘密にしていたから、お祓いとか魔除けみたいなことはしなかったはずだ。
多分夢か幻覚かなにかなのだとは思うが、私の人生の中で幽霊(らしきもの)と直接的な接点を持ったのは、後にも先にも、その一度限りだった。金縛りにあった経験も、死んだ親戚の霊を目撃した経験も全くない。
現在の私は、幽霊とか霊魂とかいったものの存在をほとんど信じていないが、かといって徹底した無神論者や唯物論者、科学万能主義者というわけでもない。
だから、例えば暗がりを歩いているときに「幽霊が出たら怖いなあ」などと考えてしまうことは普通にあるし、長い時間苦楽を共にしたテディベアを捨てたときには、なんとなく気まずい気持ちになったものだ。ホラー映画を見れば素直に怖がるし、娯楽として怪談を楽しむことも多い。
詳しいと自称できるほど見聞きしているわけではないが、だからといって怪談や心霊現象というものに全く無関心というわけでもない。
さて、ここからが本題である。
幽霊について、私は時々考えることがある。
プロレスラーやラッパーの幽霊というものは存在するのか、ということである。
果たして、プロレスラーは幽霊になるのだろうか。
ナイフで刺し殺された力道山やブルーザー・ブロディ*1なんて、この世に未練たらたらでもおかしくない。しかし、ニューラテンクォーター*2やその跡地で力道山の幽霊を見たとか、あるいはブロディの幽霊がどこかの体育館で鎖を振り回しているのを見たとかいったような目撃談を聞いたことは、一度もない。
プロレスラーと同じく、ラッパーが幽霊になったと言う話も耳にしたことがない。
差別や貧困、ギャングの抗争、ドラッグカルチャーと密接な関係を持つヒップホップミュージックは、死の雰囲気を纏っていることも珍しくない。若くして死んだラッパーも少なくない。死んだラッパーは幽霊になって、自分を殺した抗争相手の枕元に立ち、ディスをしていてもおかしくないだろう。それなのに、ラッパーの幽霊が出てくる話を私は知らない。
もしかしたら、ラップの本場であるアメリカに行けば、2PACとノトーリアス・B.I.G.*3の出てくる幽霊譚を探すこともできるのかもしれないが、日本国内でそういう話を探すのは骨が折れそうだ。
プロレスラーの幽霊が目撃されない理由について考えてみよう。
私が想像するに、プロレスラーが幽霊になりにくいのは、彼らが分厚い筋肉の鎧を身にまとい、強烈な生の匂いを放っているからだ。
かの中邑真輔*4はプロレスにしかないものとはなにかと問われ、「生身の人間が命をかけて戦っているということ」と答えたそうだ。*5
つまり、プロレスの本質とは、生きた人間と生きた人間のぶつかりあいにあり、プロレスラーの本質とはその生命力にあるのである。
プロレスというのは、ーー絶対にあってはならないことだがーー時として誰かが命を落とす、死に隣接したスポーツである。プロレスファンが垂直落下式の危険技に歓声を上げるのは、レスラーが死の危険と隣り合わせになっているからに他ならない。そして、プロレスが死に近いスポーツであることは、プロレスラーの生命力を否定しない。むしろその反対で、プロレスが死に近ければ近い競技であるほど、我々はリングから生還するプロレスラーたちの生命力を一層強く感じ取るのである。
プロレスラーの本質が生命力にあるのならば、彼らが幽霊にならないのは当然である。生命力に満ちた死者というのは、存在し得ないからだ。
では、ラッパーの方はどうだろうか。
ラッパーは、プロレスラーのように生命力に満ちた存在ではない。ビーフ*6やオーバードース*7の末に死んだラッパーが化けて出てもおかしくなさそうだ。
ラッパーが幽霊にならない理由としてまず思い浮かぶのは、彼らが言語の世界に生きているということだ。マイクを握って口を動かすのがラッパーの本領であり、沈黙が美徳になることは絶対にない。
それに対して、幽霊というのは言語を必要としない存在である。幽霊は、ただそこに存在しているだけメッセージを発することができ、おしゃべりが過ぎることは幽霊を目撃した者の想像力をかき消すことにもつながりかねない。
もっとも、何度も電話をかけてくるメリーさんのように、ある程度以上の言語能力を持った幽霊も存在するわけで、この説はあまり説得力がない気もする。
ラッパーの幽霊について語られないのは、語る側の技術的な問題もあるかもしれない。ラッパーの幽霊について語ろうと思えば、自ずと幽霊が口にしたラップを模写しなければならない。ライムを真似し、リズムを真似し、フロウを真似しなければならない。そんな技術がある語り部は皆無とは言わないが、決して多くはないだろう。
などと思いつくままにそれらしい理屈を捏ねたが、プロレスラーやラッパーの幽霊が少ないことの理由は、絶対的な数の少なさにある、というのが本当のところかもしれない。
学校の怪談が掃いて捨てられるほど存在し、いじめだとか受験だとかを苦にして死んだ学生の霊が大量に現れるのは、現実に学生というものが大量に存在することの反映だろう。
文部科学省の統計によれば、2019年度の在学者数は、小学校636万人、中学校321万人、高校316万人、大学291万人である。*8
一方、プロレスラーやラッパーの人数というのはかなり少ない。
ベースボールマガジン社が毎年発行しているプロレスラー選手名鑑は、2019年号(2018年12月発売)から掲載人数1000人越えを売り文句にしている。
この名鑑は海外のレスラーもかなりの数を紹介しているし、地方のマイナー団体所属や学生プロレスのレスラーなど取りこぼしもあることから、レスラーの正確な数を知れるわけではない。なので、あくまで推測ではあるが、日本で活動するプロレスラーの数は1000人程度なのではないだろうか。
ラッパーの数はプロレスラーの数より推測が難しい。
ZEEBRAは『公開処刑 feat.BOY-KEN』*9の中で「星の数ほどいるワックMC」とラップしていたが、この星の数というのは間違いなく100万とかいった単位ではないだろう。
少し古いデータになるが、「BAZOOKA!!!第11回高校生RAP選手権 in 仙台」(2017年3月開催)の予選参加者が1000人を超えていたらしい。*10
このことから考えると、ラッパーを自称する高校生に限っても1000人程度は存在しそうである。もちろん昨今のヒップホップブームもあって高校生ラッパーは増えているだろうし、高校生RAP選手権に出場しない高校生ラッパーも多くいることは留意したい。
一方、硬式野球部に所属する高校生の数は、2020年度は13万8千人程度である。*11硬式野球部の在籍人数は例年減少傾向にあり、2020年度は新型コロナウイルスの影響もあって特に減少の幅が大きくなっているが、それでも10万人以上の高校生が硬式野球部に所属しているのである。軟式野球部や、部活以外の同好会などを含めればさらに多い。
以上のデータから、高校生ラッパーを1000人、高校球児を10万人と互いに少なく見積もってみよう。非常に乱暴な計算だが、高校生ラッパーと高校球児には100倍の人数差があるということになる。文部科学省の統計によれば高校の数が約5000、高校生の数が300万人強なので、高校球児はだいたい30人に1人すなわり1つのクラスに1人以上はいるが、高校生ラッパーは5つの学校に1人しかいない計算になる。このことを多く感じるか少なく感じるかは人によるだろう。
それでは、高校生以外を含んだラッパーの総数についてであるが、それを推量する手段は、ちょっと思い浮かばない。メジャーレーベルでデビューした数とか、各種ダウンロードサイトに登録されているラッパーの数を数えていくことはできるだろうが、インディーシーンのラッパーや、高校生ラッパーを始めとするアマチュアラッパーの数を数えることはできないだろう。
なので、全く根拠のない感覚的なもので申し訳ないが、どんなに多く見積もっても1万人は超えないように思う。せいぜいその半分か、あるいはもっと少ない可能性も十分にあるだろう。
なにはともあれ、絶対的な数が少ない以上、プロレスラーやラッパーの幽霊譚がほとんど語られないのは仕方ないのかもしれない。
現在日本で活動しているプロレスラーが1000人程度として、その数は日本の人口1億2500万人の12万分の1以下にすぎないのである。
単純な計算をしていいのかわからないが、幽霊が12万いたとして、プロレスラーの幽霊はその中に一人しかいないわけだ。そんなレアケースは滅多に報告されないだろう。ラッパーについては、プロレスラーより数が多いかもしれないが、それでも同じようなものである。
そして最後に、これは多分みなさん最初からお気づきだろうし、私もあえて書かなかったのだが、プロレスラーやラッパーの幽霊が出てきたら、ビジュアルがちょっと面白くなってしまう、という問題がある。
ドロップキックをする幽霊や、MCバトルを仕掛けてくる幽霊を想像した時、恐怖の感情より笑いが先に来る人が多いのではないだろうか。
多くの怪談の語り手たちは、聞き手を笑わせるより恐怖させることに主眼を置く。(笑える怪談、シュールな怪談のようなジャンルもあるし、笑い話のようで実は怪談というようなパターンもあるが)
怪談が恐怖を煽る物語である以上、それを阻害するような要素は排除せざるをえない。ちょっと意地の悪い言い方をするなら、怪談の語り手たちは、誰を幽霊にするか選んだ上で物語を作っているはずで、プロレスラーやラッパーは選ばれにくい属性というわけだ。
以上がプロレスラーやラッパーや幽霊について、私が時々考えていることです。
もしもこれを読んでいる方の中に、プロレスラーやラッパーの幽霊が出てくる怪談を知っている方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。それではまた別の機会に。
追記
ちなみに、私はここで書いたようなことを考えているうちに、「ラップと怪談」という小説のようなもののアイデアを思いつきました。この小説のようなものは、文学フリマに出店した際に売っています。